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お母さん

私事ですが思い出の記録のため記事にさせていただきます。
ものすごい長文で感傷に浸ることをお許しください(笑)

母が35歳の時に僕が産まれました。
今では普通ですが当時は高齢出産でした。
子供の頃は同級生のお母さんの中では老けていて太っている母のことを恥ずかしく思ってました。

でも、僕は父とは全くコミュニケーションがとれず
甘えられるのはやはり母でしたので、お母さんっ子だったと思います。

実家は定食屋を営んでいて定休日が月曜日のみで、それ以外の日は父も母も朝9時から夜の11時まで毎日働いていました。熱があっても怪我をしても休まずです。

当然、自分のための時間など全くなくて、趣味に時間を費やして活き活きしてる他の友達のお母さんと比較して、うちの親はなんてつまらない人生なんだ。
とガッカリしていました。

当然あまり構ってもらえなく、僕には兄と姉がいますが10歳ほど離れているので遊び相手にはなれず一人遊びに興じる毎日でした。

でも、常に仕事に追われているせいで、僕に対する抑圧もなく、自由に生きさせてもらいました。
母から勉強しろだの、あれをしろだのは言われたことがなかったです。すべて僕がやりたいということに反対せずやらせてくれたのです。

そのうちの一つがギターでした。
思いつきで中学3年の夏にギターをやりたくなって
親に買ってもらいました。
高校受験前にも関わらず、ギターをやることを応援してくれたのです。(一応、公立高校に合格することを約束させられましたが、なんとか約束は果たせました)

高校に入ってからも僕のやりたいように何も反対せず自由にさせてもらいました。
とにかく僕の人生の決定事項について何も口出しをしない人だったのです。

おかげで人並みに悪いこともしてきたと思います。。。
良くも悪くもこうして僕の人格が形成されたのでしょうね

僕が物心ついてからの両親の印象は、母が優位で典型的ダメオヤジの夫婦で、いつも喧嘩ばかりしてるイメージでした。

どうして離婚しないの?と何度も聞いた記憶があります

テキパキこなす母と鈍臭い父という構図は僕達姉弟にも多大な影響を与えたと思います。

父がやることなすこと家族みんなして否定していました。
我が家では母が正義だったのです。

そんな風に僕の目には映っていました

ですがお店を畳んでからというもの、母が優位という関係性は変わらなかったですが、いつも二人でいる姿をよく目にするようになりました。

スポーツジム、パチンコ、愛犬ぶるの散歩、スーパーへの買い物

そこにいる二人の顔はいつも笑顔でした。

グランフロントが出来た時に僕が撮影した両親の写真です。


これが夫婦なのだ!

何十年間も解りませんでしたが、彼らには実の子供でも気づかない深い愛情と絆で繋がっていたのです。こんなやさしい笑顔になれるのは仲の良い夫婦じゃないと無理ですよ。

そんな笑顔の絶えない二人にまず降りかかった災難は、母のガンでした。

発見された時はすでにステージ4でしたが、手術のおかげで母はその後は回復していきました。
ですがその時、医師からは余命一年ほどだと言う話を聞かされました。
にも関わらずまたスポーツジムに通いだし、この人はやはり強い!ガンにまで打ち勝つすごい人だ!と思わせました。

しかし、すぐに次の災難がやってきました。
愛犬ぶるの死です。
元々は僕が飼い始めた犬を、上京するからといって両親に押し付ける形になってしまったのです。
僕が上京してからは僕以上にぶるを可愛がってくれました

ぶるの死の間際は介護が必要な重病だったのですが高齢で大きな手術をした後にも関わらず献身的な介護をしてくれていました。

愛犬を失った二人は、さらに夫婦の結束を固めるかのように仲睦まじく出かけていたようです。

このまま二人は穏やかな人生を全うできるのだと思っていました。

運命は無情。

ぶるの死から半年後、父が他界しました。
お正月に餅を喉に詰まらせるというアホみたいな死に様でした。とその時は思いました。

ですが今思えば、父は母の死期を察知していたのか、自分だけが残るのが寂しくて逝ったんじゃないかと思います。
事故だったので介護生活もなくあっさり逝ったので、母にも子供達にもなんの負担もかけず死んで行きました。

でも、父の死による母の落胆ぶりはかなり酷かったのです。
どんくさい父が死んで、これからは一人気ままに悠々自適生活を楽しむのかと思いきや
お墓に父のお骨も納めず、ずっと実家の仏壇に置いてました。
毎日、亡き父に話しかけていたようです。

父に会いたかったのでしょうか、父の死後半年ほどするとガンの再発が確認されました。

母はそれでも気丈に振る舞っていましたが、やがて堪え難い苦しみが彼女を襲いました。

治療することではなく、苦痛を取り除くことを目的とするホスピスに転院しました。

それまでの気丈で笑顔の絶えない母はもうそこには居ませんでした。
今年の正月に一緒に病院に診察に行った時は、僕より歩く速度が速く
「なにやってんの、あんた遅いなあ!」と言ってたくらいの気丈さを見せつけていました。
しかし毎日苦痛にゆがむ顔を見せ、幼児のようにわがままを言うようになってきました。苦しみというのはどんな気丈な人をも変えてしまうのですね。

最後の親孝行と思い、僕が2月に大阪城ホールで演奏することが決まったことを伝えると、そんな状況でも喜んでくれたそうです。
実は今まで一度も僕がステージで演奏する姿を母に見せたことがなかったのです。
昔からの奔放主義なせいなのか、もういい大人だかなのかわかりませんが僕のライブには一度も足を運んでくれることはありませんでした。

でも今まで自由にやらせてくれた集大成として、僕の晴れ舞台を見てもらおうと思い、大阪城ホールのコンサートに誘いましたが、もう外に出られる状態ではありませんでした。

その後日に日に意識が薄れてゆく中、大阪城ホールのDVDを見てくれました。
座っているだけでかなりの苦痛を伴うのに10分間じっと画面を見据えていました。

ごめんね、結局生きているうちに僕の生演奏を聴かせることができなかったね。

3月は持たないだろうと言われていましたが、4月に突入しました。
僕の誕生日が過ぎ、これはもしかしたら5月の母の誕生日まで持つんじゃ?と期待しました。

ですが、今週の火曜日。
休みが取れ、僕が大阪に戻り、母と共に一夜を過ごした日に息を引き取りました。
母と同じ部屋で眠ったのは小学生以来の事でした。
子供の時のように母と手をつないで寝ました。

熟睡してしまい、看護師さんに起こされた時、母はもう虫の息でした。
僕が手を握り呼びかけると、そのかすかな呼吸さえも止まってしまいました。

僕のことを待っていてくれてありがとう

息が止まった後も心臓はしばらく動いていて、聴覚は生きてるという話を聞いていましたので声をかけました。

お母さんお疲れ様
今まで本当にありがとう
もうゆっくり休んでね
お父さんとぶると仲良くね

すると、母の片目から涙がこぼれ落ちるのが見えました。
おそらく何かの生理現象なのでしょうけど
僕には、僕の声が届いたように思えました。

こうして75年の生涯を終えました。

母がまさに息絶える瞬間に立ち会えたことは母からの粋な計らいだったのかもしれません。

葬儀の時に、霊前で母が生前好きだったボレロを演奏しました。
初めてまともに聴かせる生演奏がお葬式の時になるとはね・・・(^_^;)
仏教では、火葬するまでは耳は聞こえているということらしいので、母の耳に届いているといいな。

おかあさん
天国でまた笑って過ごせるといいね^_^
さようなら、おかあさん

3人が元気だった時に僕が撮影した最高の一枚です。
いまごろ、あっちの世界でこの写真のようになってることでしょう。

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